山崎まゆみ白菊


全国から多くの観光客で賑わう「長岡まつり大花火大会」。
信濃川の河川敷で打ち上げられるダイナミックな花火は、
一度目にするとそのスケールに驚き、心が揺さぶられます。
音楽とともに観客を感動へと導く長岡の花火。観る者に、涙を誘うのにはこんな理由がありました。

新潟県長岡市出身。越後長岡応援団団員。ノンフィクションライター、温泉エッセイスト。日本旅行作家協会会員。VISIT JAPAN大使も務め、日本の温泉文化を海外に発信する活動を行う。近著には茂木健一郎との共著『お風呂と脳のいい話(東京書籍)』など著書多数。



花火は夏の夜の風物詩である。夏になると各地で花火大会が催され、そのほとんどが見る者を明るく元気づけるものである。だが、長岡花火はそれだけではない。
涙を誘うのだ。心揺さぶられ、涙なくしては見ることができない。
毎年8月2日3日の両日、新潟県長岡市では長岡まつり大花火大会が開催される。2日間で約2万発が打ち上がるこの花火大会は、日本中から観光客が訪れる。地方の花火大会の中でも、約百万人(2013年)もの観光客を楽しませる規模の花火大会は、他に類を見ないだろう。
長岡花火の名物「正三尺玉(しょうさんじゃくだま)」、ナイアガラの滝、また国内最大級のスターマイン等の打ち上げが可能なのは、日本一の大河・信濃川の河川敷という広大な打ち上げ現場を持つことによる。
近年は、芸術性に富む花火が打ち上がっている。例えば2009年に放送されたNHK大河ドラマ「天地人(てんちじん)」にちなんで、映像作家である池端信宏がプロデュースする「天地人花火」。
また、2012年に、大林宣彦監督の映画「この空の花」にちなんだ花火も、映画のテーマソングにのせて打ち上げられる。目玉は、平原綾香が歌う「ジュピター」に合わせて打ち上げられる、超特大大型ワイドスターマイン復興祈願花火「フェニックス」だ。

山崎まゆみ白菊
花火の中に不死鳥の姿が現れるのがフェニックスの特徴。
約2.8kmにもわたり打ち上げられる超大型スターマイン。そのスケールは視界に収まらないほど。

 
2004年10月23日午後5時56分。新潟県中越地震が襲った。震度7。大地を突き上げ、山肌が崩れ、大地は割れた。道路は寸断。新幹線も脱線。首都圏への足は断たれた中で、余震は900回にも及んだ。
中越地震の翌年の2005年5月に「世界一の花火をあげよう。復興のシンボルを作っていこう」実行委員会が立ちあがる。そのテーマが「フェニックス」。
かつて長岡藩の城下町として栄えた長岡は、戊辰戦争、太平洋戦争と二度の戦禍に巻き込まれた。街は焼かれ、壊滅的な被害を受けた。しかし、その度ごとに人々は粘り強く立ちあがってきた。その象徴として、「不屈の不死鳥」が長岡市の市章とされた。
中越地震でご支援頂いた多くの方々へ感謝の思いと、被災した人々を元気づけるため、また1日も早い復興を祈願して、戦災からの復興を起源とした「長岡まつり」でフェニックスは打ち上げられた。そしてこのフェニックスは、大スポンサーや協賛企業の力ではなく、寄付金か
ら成り立つ花火にした。
「地震で傷ついた心や、失ったものの大切さを忘れないで、前を向いて歩いていこう。その想いを次の世代につないでいきたい」という最初の想いを現在も大切にして、打ち上げられている。
フェニックスは、信濃川の河川敷に幅2・8キロに渡り15ヶ所から、高さ700mにも達する超大型のワイドスターマイン。時間にして約3分。
大空にこれ以上ないほどの光と音が乱舞する。歌が盛り上がるメロディーラインに到達すると、その音も「パンパンパン」と加速する。クライマックスは「錦冠(にしきかむろ)」。花火が打ち上がるスピードがどんどん増し、次から次へ、金色の光がほとばしる。金色の光が信濃川に届きそうな程、光の筋がしたたり落ち、空一面が黄金色に染まる。観客は、目を開けていられない程の光のシャワーを浴びる。心臓にも迫りくる音が身体を揺さぶる。
そして、最後の花火玉が開くと、型玉と呼ばれるフェニックスの形をした花火がぱっと現れ、消える。
新潟県中越地震から今年で10年が経つ。そしてフェニックスも、また今年で10年目を迎える。
今年は、今までにない規模のさらに壮大なフェニックスが打ち上がるという。
実は、こうした復興祈願花火は、長岡だからの発想でもあった

山崎まゆみ白菊
昭和28年に撮影。長生橋に仕掛けたナイアガラ(長岡市商工部まつり振興課蔵)

 
1945年7月20日、午前8時13分
信濃川沿いの左近の畑に爆弾が投下された。その後の8月9日に長崎に落とされた原子爆弾「ファットマン」と同型の模擬原子爆弾だった。これにより、4人の命が奪われ、5人が負傷した。
そして同年の8月1日午後9時6分、長岡に警戒警報が鳴り、午後10時26分には空襲警報に切り替わった。そしてその直後かB29爆撃機が焼夷弾を落とした。長岡は炎にのまれ、地獄絵さながらだったという。
空襲により、市街地の80パーセントが焼き尽くされ、1484人が亡くなった。
まだその空襲の傷が癒えていない、街中が焼け野原のままだった昭和23年に、花火が打ち上がる。「空襲でいやな思いをしたのに、音も光も似ている花火を打ち上げなくても」という反対の声があったのも事実だ。けれど、今、長岡の人達が立ちあがるには花火しかない、そう判断し、打ち上がった。
現在、長岡で戦争体験を語り継いでいる金子トミ(88歳)さんは、長岡空襲を体験し、昭和23年の花火もみている。
「あぁ、戦争が終わったんだな〜って思いましたよ。花火が上がって、嬉しかったですね」
その後、昭和26年に長岡で戦後初となる「正三尺玉(しょうさんじゃくだま)」が打ち上げられることになる。この正三尺玉を打ち上げた花火師・嘉瀬誠次(92歳)が、その後も半世紀に渡り、長岡花火を打ち上げてきた。
実は、この嘉瀬誠次も、また戦争により人生を翻弄された人物である。

山崎まゆみ白菊
花火師の嘉瀬誠次さんと。お二人は山崎さんが幼少の頃からのお付き合い。

山崎まゆみ白菊 
長岡花火を打ち上げ続けてきた伝説の花火師・嘉瀬誠次がいる。今年92歳になる。
嘉瀬の花火を絵に残したのが山下清の貼絵「長岡花火」である。山下の代表作と評されるこの作品は嘉瀬の花火に刺激を受けたものである。また、嘉瀬は海外でも数多くの花火を打ち上げている。代表的なのはロサンゼルスオリンピックの閉会式の花火だろう。
その嘉瀬が、最も花火を打ち上げたかった場所、それはシベリアであった。
嘉瀬は新潟県長岡市で生まれ育ち、第2次世界大戦中に出兵し、戦禍の中を生き抜き、千島列島の松輪島で終戦を迎えた。その後、3年間、シベリアで抑留された。寒さと飢えの中での強制労働、死と直面しながらの毎日だったが、嘉瀬は生き抜いて日本に復員した。
「おらは日本に帰って来れたろも、帰って来れなかった仲間のために、シベリアで鎮魂の花火を上げてぇやぁ」、そんな嘉瀬の言葉に多くの人が心動かされ、嘉瀬をサポートする。
嘉瀬がシベリアで戦友に手向ける花火として用意したのは、「白菊」ーーー。

山崎まゆみ白菊
花火大会前日に打ち上げられる祈りの花火「白菊」。

仏壇に手向ける白菊のような白1色の花火であった。それは花火大会の主流であるスターマインとは正反対の、純白な花が楚々と咲くような花火だった。
1990年の初夏、嘉瀬は、その「白菊」を携えてハバロフスクに渡った。
その年、ソビエト連邦共和国はペレストロイカの只中にあり、翌年には共産党の一党独裁は破綻し、ソ連が崩壊する。激動のかの地で、嘉瀬は「白菊」を打ち上げることができたのだろうかーーー。 
祈りの花火「白菊」は、純白で穢れがない。この白は、雪国で生まれ育ち、真冬の閉塞感に苛まれる雪国に暮らす者が、ほんの一瞬、太陽の光で煌めく雪原、そこで生きているものしか見ることのできない雪の眩さにほかならない。越後雪国でその祈りの花火「白菊」が生まれた。
現在、「白菊」は、8月1日の長岡空襲があった午後10時半に慰霊の花火として打ち上げられている。
(やまざきまゆみ)


長岡まつり大花火大会/新潟県長岡市
越後三大花火大会の一つにも数えられる「長岡花火」。名物の正三尺玉は計4発打ち上げられ、ほかにも、5カ所から一斉に打ち上がるワイドスターマイン、ミラクルスターマインなど、ほかではなかなか見られない大型花火の競演が楽しめます。特に、中越地震の復興を祈願したフェニックスは大会の目玉であり、平和を祈るシンボル。
■ 開催日時/2014年8月2日(土)、3日(日)19:25〜21:10
■ 開催場所/長生橋周辺 信濃川河川敷
■ 交通/上越新幹線長岡駅から徒歩20分

白菊「白菊 -shiragiku- 伝説の花火師・嘉瀬誠次が捧げた鎮魂の花」
2014年7月17日小学館より発売 山崎まゆみ著 

本文でも触れた伝説の花火師・嘉瀬誠次がシベリアで白菊を打ち上げるまでのエピソードを、山崎まゆみさんが取材・執筆を重ね1冊の本にまとめました。山崎さん自ら1人でシベリアに足を運び取材した渾身の本作。なぜ長岡の花火は涙を誘うのか?その原点に迫る感動ノンフィクションです。ぜひご覧ください。


長岡花火大会

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